群馬・水上の山あいに漂う香ばしい煙――2026年、なぜ私たちは往復数百キロを走って「あの照り焼き」を買いに行くのか
高橋 の 若 どりを求めて、関越自動車道の月夜野インターチェンジを降りる車の列は、2026年の冷え込む平日であっても途切れる気配がない。谷川岳の鋭い稜線を遠くに望む群馬県みなかみ町。車窓をわずか数センチ開けた瞬間、鼻腔を直撃するのは、焦がし醤油と澄んだ鶏脂が立ちのぼる、たまらなく野太い匂いだ。都心ナンバーの乗用車や地元軽トラがハザードを点滅させ、次々と砂利敷きの駐車場へと吸い込まれていく。豪雪地帯の街道沿い、看板を掲げた小さな一軒の惣菜店が放つ引力としては、どこか常軌を逸している。
暖簾をくぐれば、白木とステンレスの厨房から濛々たる湯気と熱気が押し寄せてくる。テイクアウト用の包みを両手に抱え、満面の笑みで店をあとにする客の横で、近所の常連が世間話を交わしながら焼き上がりをじっと待つ。フードデリバリーやAIによる味覚最適化が日常となったいまも、この高橋 の 若 どりが放つ圧倒的な土着の熱量と、かぶりついた瞬間に骨の髄まで染み渡る旨味の前では、効率などという言葉は吹き飛んでしまう。
雪深い街道沿いに立ちのぼる、甘辛い醤油と脂の匂い
みなかみ町下牧。国道から少し外れた旧道沿いにその店はある。外気は氷点下に迫るほど冷えているのに、店舗の周囲だけは別世界だ。換気扇から吹き出す蒸気が冬の空気に触れて真っ白な雲を作り、そこに凝縮されたタレの香りが乗って風下に流れていく。通りかかっただけのドライバーですら、思わずブレーキを踏んでしまう魔力がそこにある。
ガラス戸を開けると、香りは一気に輪郭を濃くする。整然と並んだ銀色のトレイ、熱を帯びたオーブンの重厚な駆動音、そして肉を切り分けるリズミカルな包丁の音。華美な装飾は一切ない。昭和から積み重ねられてきた実直な作業場そのものの佇まいが、これから口にするものへの期待をいや応なしに煽り立てる。
「今日は骨付き? それとも骨なし?」
店員の気取らない声が飛び交う。ショーケース越しに交わされるこの簡潔なやり取りこそが、群馬の山あいに根づいた食文化の日常であり、遠方からの旅人にとっては非日常の入り口となる。
「蒸し焼き」に宿る技法――なぜ皮はパリッと、身は信じられないほどほどけるのか
看板メニューである「蒸し焼き」を前にして、多くの人が言葉を失う。一般的に想像するローストチキンとも、大衆酒場の焼き鳥とも違う。皮目は驚くほど薄く、タレをまとって飴色に輝きながらも絶妙な香ばしさを保ち、歯を立てた瞬間にパリッと軽快な音を立てる。
そして、その奥にある肉だ。繊維の一本一本にまで水分と肉汁が閉じ込められており、前歯で引くだけで骨からホロリと外れる。パサつきなど微塵もない。徹底した温度管理と独自の蒸し焼き技術によって、鶏肉本来の旨味を逃さず、タレの塩分と甘みを芯まで均一に行き渡らせているのだ。
創業以来守り続けられている秘伝のタレは、決して甘ったるくない。醤油のキレが先に立ち、追って鶏から溶け出した脂のコクと、ほのかなニンニクの風味が追いかけてくる。一口目はガツンと力強いのに、二口、三口と食べ進めても脂っこさを感じさせない。気づけば指先までタレで染めながら、無心で骨の周りをしゃぶっている自分がいる。
スキーヤーの胃袋から全国区へ、半世紀を紡いだ口コミの地層
かつて関越道が開通し、苗場や谷川岳を目指すスキーブームが日本を席巻した時代、この店は滑り疲れた若者たちの「隠れ家的な補給基地」だった。ゲレンデ帰りの冷え切った身体に、出来立ての熱いチキンを流し込む。その強烈な体験が、記憶のフックとなって昭和から平成、そして令和へと語り継がれてきた。
インターネット黎明期には初期のグルメ掲示板で「水上に行ったら寄らないと後悔する店」として静かにバズり、SNS時代にはその照り輝くビジュアルがバイラルを生んだ。だが、どれほど情報環境が変わろうと、この店がメディアに媚びることはなかった。宣伝広告費をかけることもなく、派手なインフルエンサー施策に頼ることもない。ただひたすらに、目の前の肉を焼き続けることだけでファンを増やしてきた。
親に連れられて後部座席でチキンを頬張っていた子供が、今では自らハンドルを握り、自分の子供を連れて暖簾をくぐる。半世紀という時間は、単なる一過性のブームではなく、家族の歴史と結びついた強固な信頼関係を築き上げた。
コスト高騰の波に抗い、地方の名店が守り抜く「愚直」の流儀
2020年代半ばから続く原材料費やエネルギーコストの高騰は、地方の個人飲食店にとっても容赦のない試練となっている。飼料価格の上昇は鶏肉の仕入れ値を押し上げ、焼き台を動かし続けるための光熱費も高止まりしたままだ。都市部では価格転嫁とともにポーションを縮小する「ステルス値上げ」も珍しくなくなった。
しかし、月夜野のこの厨房から伝わってくるのは、愚直なまでの誠実さだ。仕入れの質を落とさず、仕込みの手間を省かず、日常の食卓を支える惣菜としての価格帯を可能な限り守ろうとする気概。そこには、単なるビジネスを超えた、地域社会への責任感が滲み出ている。
合理化の名のもとにセントラルキッチン化や冷凍流通へと舵を切る名店も多いなか、店内で生肉から下処理を行い、タレに漬け込み、その日の気候に合わせて焼き上げるスタイルを頑なに崩さない。手作業の限界があるからこそ、夕方には売り切れの札が出ることもある。だが、その「限りがあること」自体が、今や最大の価値となっている。
タイパ至上主義の2026年に響く、「わざわざ足を運ぶ」という贅沢
スマートフォンの画面をタップすれば、30分後には温かい料理が玄関先に届く時代だ。冷凍技術の進化によって、名店の味を自宅で再現することも容易になった。あらゆるものが最適化され、移動の「無駄」を削ぎ落とすタイムパフォーマンスが称賛される現代において、片道数時間をかけて群馬の山あいにチキンを買いに行く行為は、経済合理性から見れば完全に矛盾している。
それでも人々が車を走らせるのは、そこでしか手に入らない「匂いと熱」があるからだ。車内に充満する香ばしい匂いに耐えきれず、帰り道のコンビニの駐車場で包みを開けてしまう背徳感。冷たい風が吹き抜けるなか、指先をやけどしそうになりながら頬張る最初の一口。この一連の体験そのものが、デジタルでは決して代替できない贅沢なのだ。
移動という身体的な負荷を伴うからこそ、手に入れた瞬間の喜びは深くなる。「わざわざ行く」という不便さの中にこそ、現代人が飢えている本物の食体験が眠っていることを、この店に集まる客たちの表情が雄弁に物語っている。
油の染みたクラフト紙が、私たちに手渡してくれる温もりの記憶
受け取った包みはずっしりと重く、紙袋の底からはじんわりと熱が伝わってくる。持ち帰るあいだに、タレと脂が包装紙に染み出して透明な斑点を作る。洗練されたプラスチックパッケージとは無縁の、どこか懐かしいその佇まいが愛おしい。
宿の部屋で冷えたビールとともに広げる旅人もいれば、助手席の誰かと奪い合うようにして食べる若者もいる。あるいは、遠い我が家で待つ家族のために、トースターで温め直す時間を愛おしむ人もいるだろう。どんな場面であれ、その紙袋を開いた瞬間、部屋中があの月夜野の空気で満たされる。
山間の冷たい空気を切り裂くように立ちのぼる煙と、変わらないタレの甘辛い記憶。時代の波がどれほど激しく押し寄せようとも、この小さな町の一角で肉を焼き続ける人々の手が止まらない限り、私たちはまた、あの味を求めて関越道を北へと走らせてしまうに違いない。 (出典: 高橋 の 若 どり(Yahoo!ニュース))