90代にして舞台の最前線へ——韓国エンタメ界の生ける伝説が放つ、老いなき執念と70年の覚悟
イ スンジェという名が口にされるだけで、どんな撮影現場も劇場の楽屋もピンと張り詰める。韓国で「国民の父」や「巨匠」と呼ばれる俳優は数あれど、その肩書に胡座をかくことなく、泥臭く現場の土を踏み続ける表現者は他にいない。2026年を迎えた今、90代の大台にあってなお、彼の立つ舞台の床板は一切軋まない。老いてなお盛ん、などという生ぬるい言葉では追いつかない。彼がスクリーンや板の上で見せつけるのは、演技という果てのない深淵に取り憑かれた、ひとりの表現者の凄まじい業そのものだ。
ソウルの小劇場街・大学路(テハンノ)のチケットブースに並ぶ長蛇の列を見れば、その異常な熱量がわかる。スマートフォンの画面を連打して激しい争奪戦を制した20代の観客たちが息を呑んで見つめる視線の先に、イ スンジェはいつもの背広姿や飾り気のない衣装でふらりと現れる。テレビのホームドラマで見せる温厚なハラボジ(おじいさん)の残像を期待して劇場を訪れた者は、開始数分で度肝を抜かれることになる。喉の奥から絞り出される地声の太さ、眼光の鋭さ。そこにあるのは年輪ではなく、今この瞬間に命を燃やし尽くそうとする表現者の狂気だ。
70年におよぶキャリアの結晶——「台本を手放さない」という狂気
ソウル大学哲学科を卒業後、1956年の演劇『地平線の彼方』で初舞台を踏んで以来、歩んできた道は韓国現代史の起伏と完全に重なる。白黒テレビの草創期からカラー放送、映画の黄金期、そして世界を席巻する現在のストリーミング配信時代に至るまで、彼は常にカメラの正面に立ち続けてきた。
現場のスタッフや共演者が一様に口を揃えるのは、彼の異常なまでの準備量だ。「台詞を覚えるのは俳優として当然の義務であり、誇るようなことではない」。そう言い放ち、膨大な台詞を頭に叩き込むために移動中も控え室でも紙の台本を手放さない。NGを出さないことへの執着は、完璧主義という言葉すら生ぬるい職人の矜持だ。デジタル技術がどれほど進化し、後から編集でどうとでも取り繕える時代になろうとも、肉体ひとつで勝負するアナログな鍛錬を彼自身が決して手放さない。
かつて政治の世界に身を投じた時期もあった。しかし、国会議員のバッジを外した彼が真っ先に戻った場所は、やはり埃っぽい撮影所だった。名誉や権力など、演技がもたらす興奮に比べれば取るに足らないと言わんばかりの引き返し方だった。
『イ・サン』から『思いっきりハイキック!』まで、世代を繋ぐカメレオンの記憶
日本における韓流ドラマファンの記憶にも、彼の残像は深く刻まれている。不朽の名作『ホジュン〜宮廷医官への道〜』で見せた厳格にして慈愛に満ちた師匠ユ・ウィテ役、あるいは『イ・サン』における英祖(ヨンジョ)の鬼気迫る狂気と葛藤。歴史の重みを一身に背負う王や賢者を演じさせれば、右に出る者はいなかった。
ところが、彼を単なる「重鎮」の座から引きずり下ろし、大衆の熱狂の中心へと押し戻したのは、伝説的なシットコム『思いっきりハイキック!』だった。威厳ある一家の長でありながら、こっそりアダルト動画を見て家族に見つかり赤面する——。あの大胆な自己パロディは、韓国中を爆笑の渦に巻き込んだ。
大御所がプライドをかなぐり捨てて笑いを取りにいく。その振り幅の広さこそが、彼を単なる過去の偉人ではなく、今を生きる大衆芸能のフロントランナーたらしめている理由だ。シリアスとコメディの境界線を軽々と飛び越えるその柔軟さは、年を重ねるごとにむしろ鋭さを増している。
『ゴドーを待ちながら』完売劇に見る、生身の演劇への回帰
近年、演劇界を震撼させたのは不条理劇の金字塔『ゴドーを待ちながら』への挑戦だった。同世代の名優シン・グらと共に挑んだそのステージは、文字通り身体の限界を試す過酷なものだった。抽象的な台詞の応酬、終わりなき待ち時間、明確な物語の救いすらない舞台で、老俳優たちは数時間にわたり観客の視線に晒され続けた。
結果はどうだったか。全日程が即座にソールドアウトとなり、追加公演すら瞬く間に埋まった。劇場を埋め尽くしたのは往年のファンだけではない。SNSで噂を聞きつけたZ世代の若者たちが、生身の人間が放つ圧倒的なエネルギーに打ちのめされていた。
スクリーン越しにいくらでも整えられた映像を消費できる時代だからこそ、客席のわずか数メートル先で荒い息を吐き、唾を飛ばしながら言葉を紡ぐ90代の姿が、何よりもスリリングなエンターテインメントとして機能したのだ。彼にとって舞台とは、過去の栄光を反芻する場所ではなく、自らの現在地を測る過酷なリングに他ならない。
「若手よ、もっと本を読め」——現場で畏怖される厳格なメンターの顔
後進の育成にかける情熱もまた、妥協を知らない。大学の教壇に立ち、多くの現役スターたちを指導してきた彼の教育方針は、今の時代には珍しいほど厳格だ。発音の乱れ、読解力の不足、感情に頼りすぎた安易な演技を見逃すことはない。
「本を読まない俳優に、他人の人生の深みなど表現できるはずがない」。インタビューで彼がたびたび口にするこの苦言は、表面的なビジュアルやSNSのフォロワー数ばかりが注目される現代の業界に対する痛烈なカウンターだ。
だが、その厳しさの裏には、俳優という職業に対する狂おしいほどの敬意がある。使い捨ての消費物として扱われがちな芸能の世界で、いかにして一生モノの表現者として生き残るか。彼自身が70年かけて証明してきた生存の知恵を、惜しみなく次の世代へ手渡そうとしている。
超高齢社会の日韓が共鳴する「生涯現役」のリアリズム
日本と韓国はいま、世界でも類を見ないスピードで超高齢社会の現実と向き合っている。「老後」という時間の使い方が社会的な問いとなる中で、彼の生き方は海を越えて強烈なインスピレーションを放つ。
バラエティ番組『花よりおじいさん』で見せたバックパッカーとしての姿を覚えている人も多いだろう。重い荷物を背負い、誰よりも早く歩き、言葉の通じない異国の街を地図片手に突き進む。そこには「高齢者だから配慮されて当然」という甘えは微塵もなかった。
社会が勝手に押し付ける「年齢相応」という枠組みを、彼は軽々と踏み越えていく。引退の時期を他人に決めさせる気など毛頭ない。足が動く限り、声が出る限り、台本を覚えられる限りは前に進む。その泥臭いまでの実存主義は、先行きの見えない時代を生きるあらゆる世代の背中を無言で押し続ける。
幕が下りる瞬間まで呼吸を止めるな——彼が今なお走り続ける理由
彼が目指す終着点はどこにあるのか。あるインタビューで「舞台の上で倒れて命を終えることができれば、俳優として最高の本望だ」と語ったことがある。それはポーズとしての美学ではなく、本気でそう願い、その覚悟で毎回のテイクやカーテンコールに臨んでいる男の言葉だった。
拍手喝采を浴びるカーテンコールで、深く腰を折って頭を下げる姿がある。顔を上げたその瞳の奥には、やり切った満足感よりも、「次はもっとうまくやれるはずだ」という尽きることのない飢えが宿っている。
老いる暇などない。立ち止まって後ろを振り返る時間すら惜しい。観客が彼に熱狂するのは、その圧倒的なキャリアの長さに対してではない。今日もまた、誰よりも貪欲に「次の役」を求め続ける、その剥き出しの命の鼓動に触れたいからだ。 (出典: イ スンジェ(Yahoo!ニュース))