脱・量産型スーツの終着点――2026年、なぜ日本のビジネスパーソンは再び「オム ドゥ」の歪な襟に魅了されるのか
comme des garcons homme deuxが1987年の誕生時に掲げた「日本のビジネスマンのためのスーツ」というテーゼは、リモートワークとオフィスの境界が完全に融解した2026年の東京において、かつてない熱を帯びて再浮上している。かつて丸の内を埋め尽くした無個性な量産型スーツや、コロナ禍以降に氾濫した安易なイージーセットアップに飽き足らなくなった層が、いま南青山や銀座のブティックに静かな列を作っている。端正なブリティッシュテーラリングの骨格を持ちながら、どこか不敵で、わずかに重心を狂わせた独自のカッティング。それは単なる仕事着の刷新ではない。形骸化したドレスコードに対する、極めて個人的で知的な反逆の表明だ。
街を行き交う人々を観察してみるといい。仕立ての良さが一目でわかるジャケットの襟元から、あえてカジュアルなカットソーを覗かせ、足元には無骨な革靴を合わせる30代から50代の姿が確実に増えている。多様な価値観が交錯するオフィス環境において、comme des garcons homme deuxが長年貫いてきた「クラシックの脱構築」は、礼節とアヴァンギャルドを矛盾なく両立させる稀有な選択肢として機能している。アイロンの当たりすぎないウールの表情、動きに合わせて不規則に揺れる裾。着る者のパーソナリティを殺さず、むしろ引き立てるその服地には、既製品の枠組みには到底収まらない美意識が宿る。
「スーツ不要論」の先にある、能動的なテーラードの復権
2020年代前半に吹き荒れたカジュアル化の波は、オフィスからネクタイを奪い、ジャケットをクローゼットの奥へと追いやった。だが2026年の今、起きている現象は単純な揺り戻しではない。「着なければならないから着る」義務としてのスーツは完全に息絶えた。その代わりに台頭したのが、「自分の輪郭を際立たせるために、あえて選ぶテーラード」という贅沢なアプローチだ。
制約が消え去ったからこそ、選ぶ側の審美眼がむき出しになる。ファストファッションが提供する無難なセットアップでは埋められない、仕立て服特有の緊張感。それを最も生々しく体感させてくれるのが、このラインの持つ絶妙なバランス感覚なのだ。硬直したビジネスウェアの歴史をあざ笑うかのように、軽やかで、どこか崩れていて、それでいて圧倒的に端正。能動的に服を着る喜びが、ここには凝縮されている。
川久保玲が仕掛けた「日本のサラリーマン」の解体劇
そもそもこのラインの出自は極めて批評的だ。80年代後半のバブル経済期、川久保玲は均質化された日本の企業戦士たちのユニフォームに着目した。西洋の伝統的な紳士服のルールを熟知したうえで、その文脈を日本人の体躯と美学に合わせて再定義する。それは当時としても極めて前衛的な試みだった。
英国サヴィル・ロウの構築的なショルダーラインを取り入れつつ、芯地を極限まで柔らかく仕立てる。アームホールをわずかに調整し、背中のドレープに余白を持たせる。西洋への盲従でもなく、奇をてらっただけの前衛でもない。極めて現実的な「日本の日常」に根ざしながら、既成の秩序を内側から静かに侵食していく設計思想は、40年近く経った現代でも何ひとつ色褪せていない。
縮絨と化繊の魔術――触れて初めて理解できる「素材の反乱」
袖を通してまず驚かされるのは、素材が持つ独特の「重み」と「抜け感」だ。伝統的なトロピカルウールや上質なツイードをベースにしながら、ポリエステルや特殊な混紡糸を巧みに織り込む。あるいは、製品化された後に高温で洗いをかけ、意図的に生地を縮ませる「製品縮絨(しゅくじゅう)」の技術。これらが織りなすシワは、だらしなさとは対極にある、計算し尽くされた陰影を生む。
パッカリング(縫い目の縮み)が走るラペル、わずかに歪んだポケットフラップ。既成のテーラーであれば「不良品」として弾かれかねないディテールが、ここでは無二のエレガンスへと昇華される。アイロンをきっちりと当ててシワを伸ばすのではなく、シワそのものを自らの歴史として纏う。メンテナンスに過剰な神経を使わせず、雨の日の東京でも気負いなく羽織れるタフさもまた、現代の多忙な大人たちを惹きつける理由だ。
Z世代から往年のファンまで――交差する世代の審美眼
週末の南青山店やドーバーストリートマーケットに足を運ぶと、興味深い光景に出くわす。50代のクリエイティブディレクターが試着する隣で、20代前半のデジタルネイティブ世代が熱心にスラックスの落ち感を確かめているのだ。親の世代がかつて着ていたアーカイブに魅了された若年層が、いまや新品のラインへと手を伸ばしている。
彼らにとって、このブランドは「おじさんのための背広」ではない。ジェンダーやオケージョンの境界を曖昧にする、もっと自由なストリートウェアの延長線上にある。オーバーサイズの古着に慣れ親しんだ若い身体に、オム ドゥの構築的な肩先が乗ったときの新鮮な違和感。世代を超えて価値が共有されている背景には、流行のサイクルから完全に切り離されたタイムレスなデザインの強度がある。
リアルクローズとしての作法――崩して着るからこそ際立つ品格
この服の真骨頂は、着崩した瞬間に現れる。上下揃いのセットアップであっても、決して堅苦しい儀式にはならない。足元に履き古したスニーカーを合わせようが、インナーにくたびれたバンドTシャツを差し込もうが、ジャケット自体の骨格が揺るがないため、全体が破綻することはないのだ。
アンクル丈に設定されたクロップドパンツから柄ソックスを覗かせる。あるいは、あえてワンサイズ上を選んで肩を落とし、現代的なリラックス感を演出する。ルールを熟知した者だけが楽しめる、洗練された悪戯。全身をガチガチのブランドロゴで固める成金趣味とは対極にある、着る側の知性を試す余白が、ここには常に残されている。
なぜ中古市場でも値崩れしないのか――語り継がれる資産価値
ファッションの二次流通市場が巨大化した現在、多くのデザイナーズブランドが数シーズンでその価値を急落させている。しかし、このラインの定番アイテム――特に縮絨加工のジャケットやベーシックなポリ混スラックス――は、ヴィンテージ市場において異様なほどの高値を維持し続けている。
流行り廃りの激しいデザインではなく、本質的なカッティングと耐久性の高い縫製で作られているため、10年前のピースであっても現行の空気感と何の違和感もなく馴染む。服を「ワンシーズンで使い捨てる消費物」ではなく、「長く付き合える個人のアーカイブ」として捉え直す2026年の消費者にとって、この残存価値の高さは購入時の決定打となっている。本物を知る人々が最後に辿り着く場所。その確信は、これからも揺らぎそうにない。 (出典: comme des garcons homme deux(Yahoo!ニュース))